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吉本隆明氏追悼

  NHK・Eテレが3月25日の夜10時から吉本隆明氏の追悼番組をしてくれました。最晩年の吉本氏の講演録画を中心にして編集されたもので、NHKもよくぞ貴重な資料を残しておいてくれたものだと感じ入りました。
 意外だったのは、その講演のなかで吉本氏が「自己表出」にこそ言語表現の本質があると発言していたことです。言語発生のメカニズムを根源的に考察すると、自分の思いを発声したときの「自分」は、すでに対象化された自分であって、それは他人と同等の存在であるともいえるわけです。そう考えるならば、「自己表出」と「指示表出」は同時に発生したことになり、対等なものの別側面だという見解がなりたちます。「個人」と「社会(世界・共同体)」は同時に発生しているという論理と同様の見解が成立するはずです。もちろん人間の実際の意識の中では「自己表出(個人)」と「指示表出(社会)」との間に、ある種の齟齬やズレは生じますので、その点まで明確にするならば何らかの「時間論」をそこに導入するよりほかはないでしょう。少なくとも私は『言語にとって美とは何か』という書物を、そのように解釈して読んでいたので、吉本氏の発言が意外だったのです。
  吉本氏の原点のひとつに「自分は上手に話(コミュニケーション)ができない」という強い思いがあることが、よくわかりました。つまり自分はうまく「指示表出」ができないと氏は強烈に実感していたようです。その実感が出発点になっているが故に、「つぶやき」や「独り言」といった声にならない言葉の価値を何とか見出したいという熱望が生まれ、「自己表出」を中心に据えた吉本理論が構築されていったと考えられます。たしかに吉本氏は本当に講演が下手です。しかし、そこには上手に伝えられない者が、徹底的に何かを論理立てて説明しようとする誠実さが伝わってきます。この講演会の司会役をつとめた糸井重里氏が、吉本氏の講演が大好きなのも、そんなところに理由があるのかもしれません。
  私は上方落語が好きなのですが、以前から演目を語り終えて退場していく落語家さんたちが、よく渋い顔して立ち去っていくのが気になっていました。必ずしも、その演目のウケが悪かったときだけではないのです。むしろ会場を笑わせるだけ笑わせても、その仕事を終えた落語家さんは楽しい顔をされず場をあとにしていくのです。これは、ひょっとすると話芸という「指示表出」に徹した人間が、どこかで「自己」を失いそうなることからくる緊張がおのずと顔にあらわれていたのかもしれません。
  もっとも吉本氏も講演の末尾の方で桑原武夫氏の「第二芸術論」に触れ、言語芸術の価値は「指示表出」の面によっても決まると発言されていました。たしかに「自己表出」のみに価値をおくのであれば、小林秀雄氏の印象主義評論と何ら変わらず、それこそ狂気や破滅と接しつつ「指示表出」の文学を生み出していった太宰治や坂口安吾の価値を認めないということになってしまいます。吉本氏は「自己表出」としても「指示表出」としても優れた作品の例として近年亀井郁夫氏によって新訳が出されたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をあげていました。思想としても奥深い問題を描きながら、小説としても面白い作品だということです。ひょっとするとレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説も、この例に当てはまるのではないかと考えました。吉本氏の理論は普遍性を実感させると同時に、吉本氏だから提唱できたと思われる独自性をもっており、援用することが困難なのですが、推理小説やハードボイルドについて探求する際にも、あらためて検証させていただきたいと感じた次第であります。

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名無しのリーク 2018-04-13 (Fri) 05:48

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